不安定な20代後半

今日会社の7つ上の男の先輩とプライベートな話を1時間くらいした。

仕事の話から、何故か雑談を延々として、27歳の等身大の悩み相談に乗ってくれた感じだった。

 

先輩は既婚者で最近お子さんが産まれた。

頭が切れる上に、結構上に噛み付くので、周りにはちょっとめんどくさい扱いされていたりするけど、個人的には好きな先輩だ。

エリアで1番大きな企業を担当して、上司からのプレッシャーに耐えながら、残業しまくって、プライベートの時間すら仕事をしてしまっていて、ちょっと心配になる。

その上、最近は子どもも生まれて、家族サービスもしなきゃいけないという中、大変そうだが、大丈夫だろうか?

私は立場がら営業支援という立場で関わらせてもらっている。

思えば1月に営業企画になったときから、経験がない私に対しても、最初から私のことを尊重してくれていい人だ。

最初なんて本当に頼りにならないだろうに、頼ってくれて本当に有難い。

お陰様で少しずつ成長させてもらっている。

 

その先輩も入社して栃木という駐在スタートで、関信越に7年もいて、その後本社勤務を2年半経て、今は北陸にいる。

駐在スタートという意味で、私の当時のしんどさとか共感してくれる。私は2年しか盛岡にいなかったけれど。

本人曰く、俺はめんどくさいから、今ここにいる、と言っているけど、すごく真面目で一生懸命仕事を頑張っていて本当に偉いと思う。

 

30歳頃に結婚されたらしいが、20代の今の時期楽しみなよーって念を押された。

その先輩も栃木という地方では出会いがなく、東京まで片道2時間かけて合コンとか出かけていたらしい。笑

振り返ると合コンでは収穫がなくてもそんな経験も楽しかったらしい。

「男女で旅行に行って、夜トランプとかするのめっちゃいいやん、結婚したらもう出来ないよ〜、合コンにも行けないよ〜」と言われた。

今は先が決まらない不安的な20代後半だから、焦るし、足元がふわふわしている感覚で、寂しさや虚しさがあるけど、あとから振り返ると、そんなふうに愛おしい時間にもなるのだなと思った。

そうか、今は彼氏もいないし、出会いが無限大と考えれば、可能性しかないし楽しめばいい事なのだろうか。そんな考えはなかったな。

でも確かに、土日は自分の裁量で全ての予定を決めて、友達と会ったり、バドミントンしたりと予定を入れて、それなりに楽しく過ごしている。その時は楽しいけれど、足元は不安定なので、このままでいいのか、みたいな不安は大いにあるが、これはとても幸せな事だったのか。子どもや家族ができると、こんなことは出来ないもんな。そう思うと、結婚なんて早くしない方がいい?

 

結婚相手については、自分の今までの人生の経験を経た全ての直感を総動員してこの人って思える人がいたらしたらいいよ、と言われた。計算とかする相手は違うらしい。直感で思えたら、したらいいらしい。意外と当たるらしい?

あと、その先輩には結婚のリアルな話、お互いの実家は近い方がいいと言われた。盆と正月など、孫を見せて欲しいと言われるし、その度に2人の実家が離れていると、金銭的にも物理的にも大変らしい。

私の場合関西人と結婚した方が楽だよーと言われた。

なるほど、なるほど。

そういうことも想定しなければならないのか。

 

そんな事まで考えたら、結婚ってかなりの無理ゲーでは、と思った。

でも、先輩が今の私の時代は、コロナもあって確かに不安定だけど、それも含めて楽しむべきと言ってくれて、なんだか、心が軽くなった気がする。

人生のちょっと先輩にそんなふうに話を聞いてもらえて、本当に有難い。

仕事で関わった先輩に可愛がってもらえて嬉しい。

ひょんなことから、支援という形で関わることになったけれど、こんな風に信頼関係?を築けて、有難い。

所詮会社の人間かもしれないけど、こんな有難い出会いもあり、悪くないなと思えた。

この先輩とは転勤で離れても、お兄ちゃんのように慕わせてもらえるといいな、と思った。

 

 

ふるさと

昨日名古屋に転勤で来ている友達Mと話したことで、「ふるさと」について考えた。

 

お互い転勤で名古屋に来ており、奇跡的に出会って友達になって、一緒にテニススクールに通っている。

在宅勤務で平日誰にも会わずに過ごす日々が日常となる中で、仕事終わりの平日の夜にこの子と、新しくテニスにチャレンジして、終わってからマクドでだべる時間は、私にとって大切な時間になっている。

スポーツする習慣が出来ていることも、自己肯定感が上がる要因となっている。

 

そもそもMと仲良くなれたのは、共通の友達Nがいたからだ。

MとNは東京出身で地元の友達だった。

私は18年秋に名古屋に来てすぐ、大学時代の共通の友達を介してNと出会い、驚くほど気が合ったので、あっという間に仲良くなり、出会って4回目で旅行にまで出かけた笑

Nは名古屋に来て初めてできた友達で、親友となった。それからは月に1回以上の頻度で会っていて、会う度に話す内容は尽きない。

 

19年春に、Nから、地元の友達が転勤で名古屋に来ると聞き、紹介してもらったのがMで、会って初日で仲良くなれた。

「友達の友達は友達」って言葉そのもので、本当に大切な友達がお陰様でできた。

 

特に、Mは私と同じく、名古屋は転勤の2場所目であり、前場所は私も住んでいた仙台に丸3年おり、その後名古屋に来たのだ。

 

仙台の話で盛り上がる。

仙台駅前の商業施設の名前(パルコ多すぎ、エスパルもあるし、パルパル言い過ぎ笑とか)とか、1人で週末クリスロードっていうアーケード街で買い物しまくってた話とか、定禅寺通りのイルミネーションが綺麗だった話とか、秋保温泉に行った話とか。

同じ場所に住んでいたからこそ、出てくる共通のワードがあり、共に過ごしていない時間のはずなのに、まるで仙台も共に過ごしていたような感覚になる、本当に不思議で有難い存在だ。

 

そして何より、お互い東北を経験したという過酷で、辛い、厳しい共通過去がある。

今はそこまで過去を卑下しなくても、と思うかもしれないが、当時は本当に、地元から隔離されたような感覚や、職場はお互い高齢化しており、今のように社内環境が整っていなかったり、得意先も(人口減少エリアなので)ネガティブだったり、営業する上で沢山辛い経験をした。

公私共に楽しいことばかりでなく、むしろ辛いことが多くて、Mは「人生の無駄な時間」と呼んでいた時期があったらしい。

私も、20代前半という華の時代を都会で過ごすことを想像していたのに東北で過ごしたことで、心底ギャップに苦しんでいた。若者らしくキラキラした生活がしたかったのに、いつもそのギャップに悲しく泣きたくなるような思いだった。

いつも地元の「関西に早く帰りたい」が口癖だったように思う。

 

でも今回Mと話す中で、お互いの出身地がもはや居場所では無くなっているのではないかという話になった。

 

そのきっかけは、コロナ禍で迎えたお盆期間だった。

私もMもお盆に帰省し、地元で過ごした訳だが、例年と違ったのは、コロナ禍で友達に会えなかったことと、家族と過ごす時間が長すぎたことだった。

 

GWやお盆、年末年始という長期休みに実家に帰れることは本当に最高に楽しいことばかりだった。今までは。

しかし、今回はGWもお盆も、ずっと家族とのみ過ごし、全く友達に会えなくて、正直「つまらない」思いもした。おそらく、コロナ禍で神経質になった親と喧嘩をしたことも影響している。

 

今まで実家に帰った時は、朝と夜以外は、友達と遊びに出かけており、ほとんど家にいなかったので、親とトラブルになることも、「うっとおしい」と感じることはなく、一人暮らしの家のように家事をしたり負担がなく、特に母は最大限のおもてなしをくれるので、本当に居心地が良かった。「お客様」扱いをしてもらっていたということだ。

 

でも、今回は違った。特に父とだが、家の中でマスク着用を求められたり、母と楽しく話しているだけで「唾(菌)が飛ぶ」と怒られたり、心底居心地が悪いタイミングがいくつかあったのだ。

私が保菌者ではないという確証はないが、コロナに対する価値観が合わずに、家族間でもギスギスしたり、初めての感覚「早く名古屋の家に戻りたい」という気持ちすら生まれていた。

どうやらMも同じように家族とのトラブルがあったそうで、途中で「名古屋に帰りたい」と思ったりしたそうだ。

 

そこで気づいたのは、私たちは「地元に帰れば居場所がある」と思っていたが、もはや私たちの居場所は「今住んでいる名古屋」で、お互いの地元にはもう居場所がないのかもしれない、ということだった。

いつも地元に帰れば、「最高に幸せ」な気持ちになっていたのだが、今回はそうもいかなかった。

とてもびっくりした。

 

でもこれは、ネガティブな発見だけではなくて、私たちは今の一人暮らしの生活の方が、もはや現実で、お互いの地元での生活というのは仮想で、幻想になりつつあるということだった。

 

就職のタイミングで、地元企業を全く受けず、全国転勤の会社しか見てなかったので、高い確率で関西を出ることは、今から思えば仕方の無いことだった。

それを、「地元に帰りたい」とずっと願い、そこに居場所があると思っていたが、もはや、大学時代までを過ごした「楽しい関西像」はないのかもしれない。

 

そう考えると、私は社会人になってから、仙台で半年間、盛岡で2年間、名古屋もそろそろ丸2年間を過ごすことになる。

当初望んで住んだ場所では全く、全くなかった。

辛いことは沢山あった。

でも、きっと、今仙台や盛岡を訪れても、「ふるさとに帰ってきたな」という感覚になるし、名古屋もいずれは出ることは確定しているので、名古屋も第2、第3、第4のふるさととなるのだろう。

 

転勤をするこということは、その場所で仕事をするだけでなくて、もちろん、そこで「生活」をしていくわけで、本当に大変だ。

 

でも、仙台や盛岡で社会人になってからも友達が新しくできて、今も名古屋に来てから、こんなMやNのような素敵な友達が出来て、これからも付き合って行けるような貴重な友達が出来たことは、私の人生にとって本当に財産なのだと気づけた。

Mも同じことを言ってくれた。私の存在がとても大切だと。お互い似た境遇で名古屋に来て、奇跡的に出会えて、仲良くなれて、この関係はきっと一生続いていく。

 

そう思うと、全国に友達がいて、それは私の安心感や自信になっていくかもしれない。

 

そのことに気づけてよかった。

 

「転勤して色んな場所に住むことは、帰れるふるさとが増えることであり、それぞれの場所に知り合いができるということである」

 

毎日楽しいことばかりではないし、私は名古屋にいつまでいるのか、分からないし、次にどこに住むのかも分からない。 

でも、限りある時間だと分かっているからこそ、毎日一生懸命生きている。

新しい土地にも仕事にも、いらないほど刺激がある日々を、苦しみ、もがきながらも逃げずに向き合って生きている。

それは本当に尊いことなのではないか。

 

コロナでたくさんの悲しみや苦しみを経験したけれど、かえって大切な友達や家族の存在、そして何より自分という存在の大切さに気づけた。

 

私は日々成長している。これからも人間としてますます成長を続けていくことは間違いない。

 

昨日Mが言っていた。「20代の過ごし方で、30代になった時の顔つきが変わるらしい。」

 

「私たちは絶対30代になったとき、めちゃくちゃ美しく綺麗になれそうだね!!!笑」

そんな冗談、ちょっと本気(そうなれなかったら神様を恨む)で言って笑いあった。

 

最後に私の大好きなブロガーの投稿を紹介して終わります。

 

https://www.zentei-happy-end.com/entry/2020/04/11/192831

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

ポジティブ

1ヶ月前から名古屋に帰ってきて、心療内科に通っている。

昨年11月頃からパワハラ適応障害自律神経失調症と診断され通っていたのと同じところ。

2月末頃には症状が落ち着きつつあり、薬を飲むのを少しずつやめつつあったが、1月に部署異動し、営業から内勤になり、仕事の刺激のなさやつまらなさみたいなものを感じていた。

2月〜3月末にかけては、そういえば元彼とよく喧嘩もしていた。私の転勤や一人暮らしの寂しい気持ちを分かってくれない、価値観の不一致みたいなところも徐々に浮き彫りになってきていた。そうだったんだと思う。

そんな中、4月にコロナが深刻化し、元彼との些細な喧嘩からの音信不通、超優秀な上司に変わり、今までと考えられないくらいの仕事量となり、気持ちは沈んでいく一方なのに、仕事への前向きな取り組みを求められ、プレッシャーを感じて、4月末〜5月は本当にしんどかった。

「起きている時間がしんどいから、ずっと寝ていたい。寝ていても悪夢を見るし、日中寝すぎて夜眠れない。あ〜誰か私の人生代わりに生きてくれよ、今まで劣悪な小中学校の奴らとは決別して、頑張ってここまでのし上がったんだよ…。でも、誰かが代わりに生きてくれるなんて無理なんだから、もう死にたい…。なんで傍から見たら恵まれているのに、私の心はこんなにネガティブな方向なんだろう。そんな自分が嫌いだ。しんどい。」

毎日ずっとこんな不穏なことを考えてきたので、本当に毎日気持ちがしんどくて、両親にも心配をかけていたと思う。

完全在宅が6月7日に終わり、両親が名古屋まで車で送り届けてくれて、本当に1人で生活と仕事をして行く不安に押しつぶされそうになったが、安全策をはるために心療内科に通うことを再開した。

本当にプライベート、仕事、生活全ての不安や体調不良のことを全部吐き出した。

それによって、薬も血液検査や心電図をとったりしないと飲めないような以前よりは強い薬が処方されたが、薬がよく効いてくれた。

この1ヶ月涙腺が弱くて、些細なことで泣いたり感情の起伏はあったが、仕事が6月中旬から少しずつ認められたこともあり、自信になり、「仕事が楽しい」という感覚が初めて出てきた。

5月に転職サイトに登録したり、会社を休職することばかり、毎日考えていたのに、考えられないくらい、仕事に前向きになった。

自分でもびっくりした。

「仕事に助けられることもある」

転勤して行ったが、本当にお世話になった女の先輩がそう言っていた。

初めてそれがわかった。

 

今回の大失恋に際し、リモート電話の流行りという世間の流れも手伝って、途中経過から別れに至るまでたくさんの友達が話を聞いてくれた。

5月は、「なんでこんな私なんかのこと、友達だって言ってくれるんだろう、素敵な友達に、友達と言って貰えるような資格なんて私には無い」と本気で思っていたし、自信が本当になかった。

でも、6月に別れてから、名古屋にいて対面で会ってくれた友達や、電話で話を聞いてくれた友達、心配してLINEをくれた友達が本当に沢山いて、本気で励まされた。

ある友達がこう言った。

「あなたがもし嫌な子であっても好きやし、何かをするから好きってわけでもないし、ただいるだけで、何もせんでも好き。だから悩んでたっていいわけ。あんまりうまく伝えられへんかってんけど、beingでただ存在しているだけで、いいんだよ!ということが伝えたかってん。友達関係を続けるために、良くあろうとしなくていいし無理しないでいいし、合わせなくていいしそのままでいいよ!ということを伝えたかってん。頭がいいから好きとか、有名な会社にいるから好きとか、なにかしてくれるから好き、とか、そういうのではなくて、あなたそのままで、価値のある人だよー!ってことが伝えたかったのです!」

特にこの子は私のことを本当に支えてくれて、距離がどんなに離れていたとしても、一番近くにいてくれた存在だった。

だいたいはみんなこんな感じで、私が失恋したから甘えて頼っても、嫌な反応はしなかった。今まで私がその友達にたいして、都合のいい甘え方や頼り方をしていたら、こういう時に離れていくこともあったかもしれない。

なのに、こんなに真摯に向き合ってくれる友達が何人もいた。私は今までこんなに素敵な友達と関係を築けて来れたんだ、と本当に本当に自信になって、「もしかしたら私って素晴らしい人間なのかもしれない?!」というどポジティブな気持ちすら湧いてきている。

薬も飲んでるし一時的なものかと思ったけど、なんやかんや、1ヶ月くらいそんな気持ちが持続している。

今までになかった、本当に素晴らしいことだ。

 

人生は大学卒業するまでは、だいたい、期間が区切られており、終わりに向けて頑張っていけばいい感じに生きられる流れとなっていた。

小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年。

「最初はいろいろあったけど〜、卒業する時はこんな素敵な仲間が得られて最高!」みたいな安っぽいけど、本当にそんなことを今まで感じてきた。

でも現実問題として、今も尚財産として残っているのは、高校と大学の友達だけだ。笑

思い返せばあんなに闇過去であった、中学校のときでさえ、仲間最高とか当時は思っていた自分すらいる。笑

中学校までは本当に世界が狭すぎて、その中で生きていくしか無かった。本当に辛かった。

高校に入って、何度か中学のときの''仲良しグループ''とやらの集まりに参加したけど、どんどん話は合わなくなったし、そもそも10人中半分のメンバーは嫌いだったし、未だに連絡をとってる子なんて、幼稚園から一緒だった友達1人だけだ。笑

高校から自分で選択して、人生を切り開いて、ここまでなんとか来ることが出来た。

本当に自分の努力と、親の支え、その時々に支えてくれた大人や友達のおかげだ。

会社に入って、なんでこんなに劣等生なんだろうと本当に悩み続けてきたけど、会社にいる人たちは、私のような中流家庭ではなく、親がお金持ちで、中学受験、ずっと私立、からの優秀な学歴など''文化的再生''で、ここまで来るのが容易かった人が大半だと思う。

そこに、自分の努力で並べている、ということだけで本当は素晴らしいのではないか?

ただ途中から、自分にあるものより、相手にあるものばかりが見えて、羨ましいとかなんで自分はこんなに駄目なんだと、自己嫌悪ばかり繰り返してきた。

 

最近はあんまりそんなふうに思う機会が減ってきた。

薬の効果か、失恋かきっかけか。

どん底まで沈んでいたのに、少しずつ上がってくることが出来つつある。

そう思えば、今回の件がいいきっかけになるかもしれない。

このまま、何気ない日常を大切にする心と、周りにいてくれる大好きな人達を大切に、何より自分自身を大切に、人生をゆったりと自分のペースで歩んでいきたい。

今はそう思っている。

 

また書きます。

 

ケジメ

6年ぶりにできた彼氏と別れた。出会ってから約1年間が過ぎていた。

頭では自分の将来のために別れてよかったんだという気持ちと、まだ気持ちでは好きだったことを思い出す。

いつも頭で考えていることと感情は一致しない。本当にめんどくさいな。

 

1ヶ月前に会う約束をして、ずっとこの日が来るのが怖かった。

実家にいたし、体調も壊したし、心もずっと鬱々としていた。

自分から会う日を設定したが、「別れ話をしよう」とは誘わなかった。「1回会って話そう」と誘った。

まだ少しでも可能性があるなら、未来がなくても、自分の精神衛生的に関係を続けたいと思ったからだ。

でも、6月7日に名古屋に帰ってきて、少しずつ変わってきたのかもしれない。

家で1週間を1人で過ごす日々は約1年ぶりだったし、耐えられるかな…と心配だったけど、心療内科にも通って、薬も飲んでなんとか乗り越えることが出来ている。

コロナの外出自粛明けのタイミングも重なり、2ヶ月ぶりに友達に会うことを再開して、沢山話を聞いてもらって、気が紛れていることもある。

 

6月13日、本当はこの日が最後の日になる予定だったが、相手にドタキャンされた。でも、結果的には良かったと思っている。

前日の夜は、何を話そうかとか、携帯のメモには整理していたが、関係性を続けていく可能性があるならば…と淡い期待をしてしまっていた。とりあえず相手の話を聞いてから考えようと思っていた。

でも当日の朝にドタキャンをされて、そもそも彼氏彼女の関係ではなく、人としてありえないと思えたことで、沢山相手を心の中で罵ることができた。

わたしがこの1ヶ月半の間、この日が来るのが怖くて、心身ともにズタボロになり、その中で設定した日を、いとも簡単に当日の朝に理由もなく、ドタキャンできる人だったんだ、と絶望に絶望を重ねることが出来たからだ。吹っ切れたんだと思う。(もちろん、薬の力でそう思えたところもある)

 

結局最後の日は、6月21日になった。朝10時にうちの家で話し合いをした。

ドタキャンをなぜしたのか、なぜこの2ヶ月間音信不通のように連絡を絶ったのか。揉めたきっかけはあまりに些細なLINEでのやりとりだったのに。そこを中心に全て聞きたかったことを詰めるように聞いた。

仮にも愛していた人で、マメで誠実だと思っていたにもかかわらず、急に人が変わったかのようにそんな対応をされたことを、もちろん悲しかったが、驚きの気持ちも大きかった。

その対応をされて、わたしがどんな気持ちになったか、正直に心身ともにズタボロになったことも言った。

あまり覚えていないけれど、向こうは反抗もせず、ただ謝っていたように思う。

なぜそうしたのか、本当のところはわからないけれど、彼の言葉をそのまま鵜呑みにするなら、「コロナで仕事が大変になり、仕事以外のことを考えられなくなった」が答えだった。

不誠実な対応への納得感は一生ないけれど、相手のとった行動について、理解は多少できた、それが私が最後まで相手と向き合った成果だった。

あとは、相手が一応は、自分が逃げていることを認識していたこと、悪いとは思っていたけれど、行動に移せなかったことを言ってくれて、まだ救われた。血も涙もない人ではなかったのかな?と、そんな悪い人と付き合っていたわけではなかったのだと思った。 

 

友達のアドバイス通り、きっかけを作った相手から振らせた。振らせることは自分が悪者になるから、自分事になるというアドバイスだった。

それを実行した時、相手は正座して、「別れてください」といった。この言葉を聞いた時、また私は涙が溢れたが、相手も初めて泣いたので、ざまあみろと思った。良かった、このやり方で。

 

わたしは言いたい放題ぜーんぶ言ってやったので、相手にも言いたいことがあるか?と何度も聞いた。 

まず、転勤で一人暮らしで名古屋に来ていて寂しくて、精神的に寄っかかってしまったことは認識していたので謝った。重たい女だったんだと思う。

相手から言われたのは、「強いて言うなら生活リズムが合わなかった」だった。相手は早く寝たいが、わたしは夜更かしをするということ。そんなもん、一人暮らしの狭い家で同じベットで寝ることが無理でしょ、広い家に住んだらそれは解決するわ、と直ぐに言い返してしまった。笑

 

そして、直した方がいいところとして「ネガティブなところ」と言われた。これについては、自分でも上手く処理しきれてなくて大変で苦しんでいるけど、だからこそあなたの前向きさには救われていた、ありがとうと言えた。

「でもあっこはそのままでいいと思うよ、幸せになってね」と言われた。

「一緒にいた時は本当にずっと楽しかったし、素敵な思い出ばかりだった」とも言われたし、それは私も同じだった。

今から思うと、全部嫌いになった訳では無いのに、なんで別れなければならないのだろう、と思ってしまう。

相手が全部を本心で話していたかは分からないけど、やっぱり全部嫌いになれない。

でも、付き合っていた相手が、最低なところもあったが、全部が最低ではなかったと知り、付き合っていた自分のことを少しは肯定する事ができた。

だから最後に話せてよかったと思った。

 

最後は鍵を返してもらい、荷物を全てまとめて相手は出ていった。

その前に、アホだと思うけど、「好きだったから最後に抱きしめて欲しい」と言ってしまった。泣きながらありがとうと伝えた。

 

ドアから相手を見送った時、初めて相手は振り返らなかった。そんなもんだね別れるってことは。

 

付き合っていた時は、恋は盲目だからか、結婚したいとも本気で思っていたし、この人と一緒にいるには、自分の仕事をどうすればいいだろう、とずっと悩んでいた。

でも、今回のコロナをきっかけとして別れる前から、「この人との未来はないんだろう」と薄々気づいていた。

確かにコロナは仕事にも人間関係にも悪影響しか及ぼさない。

でも、仕事だけでキャパがオーバーになり、本来なら1番大切にする人を、放ったらかしにしたり、ひどい仕打ちをする人とは、わたしは一緒にはいられない。

でも、男の人って仕事しか考えられなくなる人が多いらしい。女性はそれなりに上手く全部やれるのにな、生物の違いなんだろうな。

わたしは頭は賢いので、コロナをきっかけとして1年で別れられて良かった、ピンチの時に出てきた本性に早めに気づけてよかったと思うけれど、感情が馬鹿なので、まだ好きな気持ちを引きずっている。

嗚呼。しんどいな。

 

友達にたくさん話を聞いてもらって、毎日泣いて、少しずつ時間薬で立ち直っていきたい。

立ち直れない自分を責めるのはやめよう。

少しずつ、少しずつでもいい。

焦らない。30歳までに結婚せなければならない、という目標を変える。35歳に設定する。笑

なんだったら、一生結婚しなくてもいい、良い人がいたらくらいまで、考えられたら絶対楽だとは思う。

まだ26年しか生きていない、人生100年時代だから、残り70年以上ある。

今焦ってする選択が命取りになることは大いにある。

友達が「結婚とは幸せになるためにするのではない、セーフティネットである」「結婚とは、信頼できるビジネスパートナーとするべきだ」「結婚はゴールじゃない、離婚することになったらもっと大変」など、沢山アドバイスをくれるので、焦らない、焦らない。

 

やっぱり次の恋もしたいし、それが結婚に繋がればいいけど、「一見回り道に見えることが、実は近道だったりする」という言葉を信じる。

「人生上手くいくことが全てではないよ」という言葉も私をずっと励ましてくれている。

次はピンチの時に一緒に乗り越えられる人がいいな。

年上と付き合ったことがないから、年上がいいかな。

あとは、一人暮らしの人かな。

顔がイケメンでは無い人と付き合うようにも言われました。笑

 

信じるしかない。私が安心できる、「この人だ!」という人がきっと現れると。

 

わたしは強い。今回のことで、相手に好意を伝えるアクションが出来て、付き合うことが出来たし、周りから可愛くなったと言われたし、家事力も上がった。

初めて仕事と生活を両立させる難しさを知ったし、将来の優先順位は生活>仕事だという答えや、いずれは関西に帰りたいという思いもできた。

今回の失恋で、自分が精神的に相手に寄っかかってしまったことを反省したし、相手に期待して返して貰えなくてストレスが溜まってしまっていたことも知った。

特にこの音信不通だった2ヶ月間はとても苦しくて、心身ともにズタボロだったけれど、乗り越えることが出来てきているし、わたしはまた強くなった。

後悔はしていない。

今が1番最高で、今が1番若い。笑

こんな素晴らしいアドバイスをくれる友達が沢山いて、そんな人達に相談出来る環境にある自分の過去についても肯定する。

何度も話を聞いて、親身になってくれた友達がいた。

本当に感謝しているし、今後友達が苦しんでいたら、わたしも同じように寄り添える人間にもなれる。

私は強い。

 

一年間ありがとう、さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オフラインの友達

今日は友達と久しぶりに会った。

オンラインではなく、直接あったのが二ヶ月以上ぶり。

12時に待ち合わせして、別れたのが23時半。笑

11時間半も一緒にいてずっと話続けられるのが凄いし、転勤で来た土地でそんな友達と出会えて本当に良かった。

色んな言葉を貰ったので忘れたくなくてメモする。

 

・最近、過去に辛いことがあった人の方が乗り越えて、今現在前向きだったり強かったりすることがあると思う節が増えた。それに比べると私はそこまで大きな挫折はしていないのかもしれない。例えば親が優しくて甘やかされて育っている。それなのに、ネガティブで悩んでばっかりいる。情けないと思っている。もちろん、苦労をしなかった訳では無いし、いつもギリギリの中だったけど、なんとか良い道を選べてきただけだ(過去は何故かいつも美しく見える)。彼女が言うには、やっぱり家庭問題で悩むことが少なかったというのはまず親に感謝すべきだ。そこは親孝行ができるうちに絶対にした方がいい。そして、辛いことがあったり、失敗をした子は私たちにエピソードを共有してくれて、私たちはそれを聞いて、経験してないのに、学んだり、教訓としたり、考え方の幅を広げることが出来ている。それによって、自分の生き方も「上手くいくことが全てではないよな」って、緊張を解すことができるというか、許容範囲が広くなる。だから、やっぱり友達というのは依存先をひとつにせず、色んな人の価値観を聞けるような場を持つのがいいということ。納得した。友達の良さは、自分の凝り固まった視野を広げてくれるところにある。依存先が少なくなると、今回の私のように潰れそうになる。

 

・私は仕事してて劣等感を抱いたり、できないって自分のことを責めてしまうことが多い。根本には、周囲の人と自分を比べてしまってしんどくなることが多いのだが。これは、とてもつらい。1週間のうちで5日も占めるのに、ずっと自己嫌悪に陥っている。でも、友達からすると、そんなふうに自分を律することができるというか、反省してて偉いと言われた。フツーは、反省そんなにしないらしい。やっぱり真面目すぎるって言われた。でもそれは良さでもあるらしい。今の自分に満足してたら成長はしないらしい。たしかに自信満々な人は、周りから見てて結構痛いヤツは多いと思っている。私みたいなのはしんどいけど、調子乗ってる奴も微妙やから、ほどほどがいいな。自分を客観視できるのが一番いい。やっぱり私は肩肘張りすぎず、もっと緩くていいのにな。

 

・私は社会人5年目なのに大して誇れることも無くて、明るく前向きに働いている後輩を見ていると、羨ましく思ったり、自分は過去そんな風ではなかったと思いがち。でも、友達は後輩に「社会人辛いのに、4年間も続けているだけで偉いですよ」と言われたらしい。そうか、いつも余裕だった訳ではなくて、ずっとギリギリの状態で仕事をしているけど、辞めずに仕事に行けているだけで充分偉いのだ、とハッとした。逃げずに向き合っているだけで自分を褒めてもいいのだ。

 

・私が今の職場で居心地が悪いことを言った。それは、小中高大と、自分が比較的集団の中でリーダーシップを発揮したり、輪の中心にいられることが多かったのに、今は学歴底辺って思って引け目を感じてしまったり、周りと比べて「私は仕事が出来ない」と思ってしまうことがあるからと自分では分析している。友達は私と似てて、小中のときは、クラスのみんなが憧れるような存在だったようだが、高校で進学校に行ったら、成績もあまり奮わず、自信があった部活動でも補欠になったらしい。地元では、「出来る子」というイメージを持たれていたから、地元の子達に会いたくもなくなったらしい。しかも、大学受験も東進ハイスクールに毎日通ってて、模試でもいい判定出てたのに、志望校に落ちて、思ってもなかった大学に現役で進んだらしい。でも、彼女は大学でゼミやインカレサークルやバイトも国際交流も頑張って、納得が行く大学生活が送れたらしい。なにより、ゼミの先生との出会いが大きかったらしくて、「会社に入ってから、学歴主義な風土な考え方の人もいるかもしれないけど、この大学を卒業したからこその''物事を見る考え方や価値観''という武器があるから大丈夫」と言ってくれたらしい。私は会社でなにか上手くいかないことがあると、大好きな大学やのに卑下して言うたり、「やっぱり旧帝大卒業してる子は地頭が違うから、叶わへん」ってすぐに思ってしまう。でも、その子の言う、母校を卒業したからこその''物事を見る考え方や価値観''という武器は、ほんまに多く得たと思っている。私もそれを大事にしようと思った。自分の大好きな大学を卑下して言いたくない、だからもう自分の過去を卑下するのはなるべく辞める。

 

・私は入社してから仕事内容が結構コロコロ変わっていて、専門性があまりない。広く浅くを学んできた。専門性が無いけど、経験は沢山ある方なのかもしれないが。ただ今の企画の仕事をする中で、私がやった営業の3つのうちの1つの営業を深く知らないと、企画としていいアドバイスができなくて、苦しいことが多い。企画として営業も気づいていないような視点をもって支援をしなければならないのに、自身に経験がないから、何も言えなくなる時が多い。そんな時私は''知ったかぶり''をしてしまうことが結構ある。周りにはバレてないかもしれないけど、自分の中ではちゃんと、知ったかぶりをしている。これは完全に自分のちっぽけな見栄やプライドがそうさせている。でも友達が言うように、仕事ができる人は例え40代でも後輩に分からないことは分からないことはっきり聞ける人らしい。エリア独自のルールも企業独自のルールもある。だから、恥ずかしがらずに「私馬鹿なので分からないので教えて欲しいんですけど…」って聞く勇気がとても大事だと思う。今はまだ5年目とかだから、聞きやすい環境にあるらしい。1年目の時から、聞くの恥ずかしいっておもってたけど、年次を重ねると聞きにくいのは、自分の見栄やプライドが邪魔をして、益々恥ずかしくて聞けなくなるからでは無いか、と気づいた。そして、できる人はたとえ自分が幾つであっても後輩にも聞けるし、聞く相手を考えればいい。みんな経験はそれぞれ違うのだから、全部を知ってるなんてことは不可能。やっぱりちっぽけな見栄やプライドは、成長を邪魔する。

 

・私は同調意識からか、年齢を気にしてしまう。「30歳までに結婚して、1年くらいは2人で過ごして、子どもも第一子を出産して…」のように人生計画を勝手に立てていた。相手がある事だけど、割と本気でそうしなければならないくらいに思っていた。でも、27歳にさしかかろうとしている今、別れただけで、心身のバランスを崩してしまうほどに、人生計画が崩れ去ったと絶望感に苛まれいる。友達も「30歳までに結婚して子どもは3人欲しい」と思っていたらしい。でも恐らくそれは叶いそうにないし、あまり焦っている感じもない。友達は会社の制度を利用して、1年間海外研修を受けることが決まっている。本当はこの秋からの予定だったが、コロナの影響でいつから派遣されるかわからないそうだ。それなのに、転勤の土地で一緒にいる時間を大事にしたい、だから沢山遊ぼうと言ってくれる。とても前向きだと思う。私は結婚とか考えると、この時期に1年間海外に行くことは、年齢を考えると益々遠のいてしまうのではないかと勝手に心配していた。ここで、私の別の友達だが、去年26歳の時に、会社の制度を使って半年間海外で働いていた友達もおり、ちょうど1月に帰国した。それに行くと聞いた時は、正直「女性にとって大事な時期に良く行けるなぁ」と思っていたが、彼女はとうに半年を終えて帰国したし、精神的にとても成長していた。あっという間だった。それを思うと、あんまり年齢を気にしている自分がバカみたいだなあと思うようになった。やりたいことをやるのに年齢は関係ないのだなぁ。昨日会っていた友達の話に戻すが、会社の同期には、結婚のタイミングと被っている子が海外行くかどうか迷っているみたいな話も聞く。でも、その子は他人は他人だし、という感じで、あまり羨ましそうにもしていない。今は転勤の土地だから、地元に帰れた時に相手は探そうかなと結構気楽に考えている。とてもいいと思った。やはり、日本の「年齢を重ねることは悪」みたいな考え方に縛られている自分が情けない。海外の人みたいに、「年齢を重ねれば重ねるほど人としての魅力が益々高まる」くらいに思えるようになりたい。

ここで、逃げ恥のゆりちゃんの名言をもっかいおさらいしたくなった。

「自分がバカにしてるものに自分がなる、それってつらいんじゃないかな?今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。自分がバカにしていたものに自分がなる、それって辛いんじゃないかな。私たちの周りにはたくさんの呪いがあるの。あなたが感じているのもそのひとつ。自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。」

 

昨日はこんなことを話していた。真剣に語りある友達がいて、私は幸せ者だと思う。

 

 

 

 

心療内科

昨日心療内科に行きました。

先生に言われたことを忘れないようにメモとして残しておきます。

 

仕事面
・上司には在宅が長くて体調を崩している、心療内科に通っていると正直に伝える
・体調的に在宅ができる間は、在宅を中心にして、2〜3時間働いたら家でゴロゴロしてたらいいよ
・上司が「期待してる」とか、「成長してね」とか言われるのがプレッシャーでしんどいのは、受け流せばいい。テキトーに聞き流したらいい。向こうも心から思っているか分からないし、他の人はテキトーに受け流している。
・私はとにかく真面目すぎる、真正面から受け止めすぎ

(気は真面目なのに、行動が真面目じゃないからいつもギャップでしんどい)
・会社は休業せずにだましだましで頑張ろう
・転職したいとか会社辞めたいって言ったら、しんどい時にした決断はいい決断にならない。また元気になったら新しい決断をしたらいいよ。


プライベート面
・付き合ったのが1年くらいならハズレを引いたと思ってやり直せる。逆に早く分かってよかった。
・そんな不誠実な人と結婚しなくて良かったよ
・転勤先で一人暮らしで寂しいだけだよ

 

しんどいのは仕事とプライベートどっちが大きいと思う?って聞かれて、プライベートのダメージの方が大きいと思います、と答えたら、「正直でよろしい」と言われた。

 

 

昨日のお支払いは6,000円を超えた…!

心療内科は高すぎる。。。

私の場合人生相談みたいになってる?

薬は以前よりひとつ増えたけど症状悪くなっているのかな?

心臓の検査と血液検査までされた。。。

 

最近起きている時間は考えてしまってしんどいからずっと寝ていたいとか(寝てても不吉な夢を見るししんどいけど)、誰かに人生代わりに生きて欲しいとか思ってた。

だましだましでゆる〜く生きていけるようになりたい。

ゆるくていいや、なんくるないさーって思えるようになりたい。

友達に心療内科に行ったことを言ったら、私は恥ずかしいと思っていたけど、「自分の症状を自覚して行動に移せている」と褒めてくれた。ビックリした。

友達にも職場の総務の人にも親にも今の状況を相談していたけど、私は完全にダメになる前に安全策をはる傾向があると思う。

小出しにやばいかも…と言いがち。

オオカミ少年みたく、いつか信じてもらえなくなったらどうしよう。笑

でも、最後にすがれるものが欲しくて、心療内科にかかったけど、アドバイス聞けてやっぱり行ってよかったなって思えたし、ちょっと安心出来たので、高かったけど良かったかも。

三者の意見って大事なのかも。

また書きます。

 

 

 

 

 


 

ドライブ

いよいよ明日一人暮らしの家に帰る。

家を出てから4年ぶりに実家で1か月半暮らした。

最初は人との共同生活に戻れる気がしなかったが、もはや日常となり、元の一人の日常に戻るのが怖いくらいになっている。

毎週末散歩のために車で連れ出してくれた両親、本当に感謝している。(密な土地は避けて、テイクアウトをしている)

貴重な想い出なので忘れないように記しておこうと思う。(忘れているところもあるので両親と答え合わせした)

 

4/19

亀岡保津川下りの河川敷でマクドを食べる。外でご飯食べるのが久しぶりだった。綺麗になった亀岡駅の近くに、新しく京都サンガのサッカースタジアムが出来ていた。麒麟が来るとのタイアップでコロナがなければ人が沢山来ていたであろうのに、勿体ない感じだった。そのあと水の美味しい出雲大神宮へ。小さな滝を見た。人が全然おらず、店も全く空いていない嵐山をドライブして、広沢池で散歩した。大覚寺は入れなかった。

 

4/26

伏見酒蔵巡りをして、川沿いでモスバーガー食べた。京都黄桜でクラフトビールを買った。せっかくなら酒蔵で飲んでみたかった。そのあと両親の昔住んでいた醍醐のマンションへ。今の家を買っていなかったら、ここで生まれ育っていたんだなと思うと複雑な気持ちだった。住む場所で出会う人も変わるので人生は変わる。今の家の方がずっと環境が良かった。引っ越してくれてありがとう。父が昔働いていた会社、名神高速道路を作り始めた地も見た。山の上にある将軍塚に行き、眠くなってベンチで寝た。

 

ゴールデンウイークは車ではほとんど出かけず、母と散歩しまくっていた。散歩に出かけたら1日3時間とかもよくあった。いつもは自転車で行くスーパーまでを歩き、スーパーでマウントレーニアとポテチを買って公園のベンチで食べて喋っていた。とても素敵な時間だった。母も嬉しそうだった。

 

5/9

兄が帰る最終日に、家族みんなで出かけた。平野神社北野天満宮上七軒茶屋街を歩く。鴨川のほとりでお弁当を食べたが、母がトンビに弁当喰われて大爆笑した。葵餅を食べた。雨の中八坂神社の裏側歩き、羽生結弦の願いが書いてある晴明神社へ行った。京都大学前の蔦の絡まるミキの家探しに行くけど見つからなかった。笑

 

5/16

お父さんが美味しいケーキを買う目的のドライブはどうかと提案してくれて、「京都ケーキ」と検索したら1番上に出てきたケーキ屋さんとパン屋を目掛けてドライブした。河原町からも歩いて行ける距離らしい、食べログ3.7?くらいのパティスリーエスというお店。そのあとは、同志社大学近くのル・プチメック今出川店にパンも買いに行った。そのあとに知恩院で車を停めて、柳が綺麗な花見小路を歩き、芸能神社を通った。いつもは賑やかな四条大橋の近くまで行ったけど、店はどこも空いてなかった。風俗街も通ったが、嫌悪感が凄かった。ケーキ屋さんでショコラとメレンゲ菓子をテイクアウトして、車の中で食べた。名古屋KITTEにも入っている店だった。それでお腹いっぱいになり、買ったケーキが食べられなかった。

 

5/17

びわ浜大津で車を停めて散策した。湖岸に野生のアヒルがいて、絶対にハトに餌を譲らなくて可愛かった。競艇場があったり、タイミングよく噴水が上がった。かつくらがあると聞いて口がもうかつくらになって行きたい!と思ったけど、混んでいたので蜜だからと一度はあきらめた。でもイオンモールで時間をつぶして、時間的に空いてきたからかつくらで1ヶ月以上ぶりに外食した。こんなに外食って幸せなんだと噛み締めた。相変わらずお母さんがキャベツと味噌汁をひくくらいおかわりした笑。その後食べた分減らすために近江大橋を往復してめっちゃ歩いた。歩けて感動した。家帰ってから昨日買ったケーキ食べたけどめっちゃ美味しかった。さすが食べログ3.7!

 

5/23

マクドで欲張って買って、牛若丸の五条大橋の下で食べた。胸焼けしてしまった。その後二寧坂・産寧坂歩いた。暑い日でバテながら、清水寺の入口まで行った。暑すぎてバテてほうじ茶ラテ飲む、それでなんとか生き返った。家帰ってからバテて晩御飯まで寝た。

 

5/24

フレンズマートで長崎ちゃんぽんテイクアウトして、宇治川見ながら食べた。美味しいけど、めっちゃ暑かった!その後宇治を散策。鵜飼の鵜を見たり、野外ライブしてる人を見た。野外ライブやってる人は上手くて、酒は飲むはタバコは吸うわ、超楽しそうな老後の過ごし方だった。暑すぎて福寿園のほうじ茶・抹茶ソフトクリームを食べた、めっちゃ美味しかった。帰りはスーパーのお寿司にするかという話になったけど、私の鶴の一声で長次郎の寿司をテイクアウトして晩御飯に食べた。やっぱり長次郎は美味しい。

 

5/30

ラクセーヌのニトリに一人暮らしの家用にデスクとチェアを買いに行く。全部が欠品していて、みんな考えることは一緒でビックリ。ラクセーヌ高校ぶりで懐かしい。私たちの青春の全てだった笑。そのあとダイヤモンドシティハナの無印を見に行ったが全然無くて、ニトリ西院店でじっくり見て、結局勢いで注文した。

 

5/31

東本願寺行った。長く住んでいたのに、京都駅前にあんな立派な総本山があるのは知らなかった!親鸞の教えに触れて、なんか宗教って昔の人の暮らしを支えるものだったんだな、とか思った。みんなもっとより良くなりたい!って思う中に自然と宗教があったんだなと。現代の日本人は宗教持ってる人少ないけど、もっとそういうすがるものがあってもいいのかもしれない。東本願寺でお腹減らして、まさか食べられると思ってなかったよしむらのそば食べた。やっぱり美味しかった。自分はいいからと私に美味しいものを食べさせてくれる父の優しさを感じる。四条河原町から新京極・寺町通って、烏丸まで歩く。結局買ったのはドラッグストアで性格出てると思う。笑

 

6/6

京都で過ごせる最後の土曜日。色々行き尽くしたけど、美山かやぶきの里の行ったことがないなあ、と言ったら遠いけど連れていってくれた。ご飯食べるところがなさそうと不安だったけど、最後の砦的なそば屋さんで食べた。蕎麦は微妙だったけど、縁側もある茅葺きの屋根の古民家の雰囲気が素敵だった。そのあと、かやぶきの里を散策した。前来た時は駐車場代も要らなかったらしいけど、500円とるようにしたらしい。流れている時間がゆったりとしている気がして心が温かくなった。普段は中国人観光客だらけらしくこんなゆったりとはしていないらしい。美山牛乳ジェラートが美味しかった。野生の猿に遭遇した。その後大野ダムに行った。ダムはすき。遅くなったのにお母さんが焼きそばを作ってくれて、最後の実家のご飯を楽しんだ。

 

気持ちは晴れずしんどい帰省だったが、温かい両親は気分転換に色んなところに連れてもらった。本当にありがたい。感謝の気持ちは忘れてはならない。

地元の素晴らしさを一層知った帰省になり、いつか戻って来たい気持ちが強くなった。