ふるさと

昨日名古屋に転勤で来ている友達Mと話したことで、「ふるさと」について考えた。

 

お互い転勤で名古屋に来ており、奇跡的に出会って友達になって、一緒にテニススクールに通っている。

在宅勤務で平日誰にも会わずに過ごす日々が日常となる中で、仕事終わりの平日の夜にこの子と、新しくテニスにチャレンジして、終わってからマクドでだべる時間は、私にとって大切な時間になっている。

スポーツする習慣が出来ていることも、自己肯定感が上がる要因となっている。

 

そもそもMと仲良くなれたのは、共通の友達Nがいたからだ。

MとNは東京出身で地元の友達だった。

私は18年秋に名古屋に来てすぐ、大学時代の共通の友達を介してNと出会い、驚くほど気が合ったので、あっという間に仲良くなり、出会って4回目で旅行にまで出かけた笑

Nは名古屋に来て初めてできた友達で、親友となった。それからは月に1回以上の頻度で会っていて、会う度に話す内容は尽きない。

 

19年春に、Nから、地元の友達が転勤で名古屋に来ると聞き、紹介してもらったのがMで、会って初日で仲良くなれた。

「友達の友達は友達」って言葉そのもので、本当に大切な友達がお陰様でできた。

 

特に、Mは私と同じく、名古屋は転勤の2場所目であり、前場所は私も住んでいた仙台に丸3年おり、その後名古屋に来たのだ。

 

仙台の話で盛り上がる。

仙台駅前の商業施設の名前(パルコ多すぎ、エスパルもあるし、パルパル言い過ぎ笑とか)とか、1人で週末クリスロードっていうアーケード街で買い物しまくってた話とか、定禅寺通りのイルミネーションが綺麗だった話とか、秋保温泉に行った話とか。

同じ場所に住んでいたからこそ、出てくる共通のワードがあり、共に過ごしていない時間のはずなのに、まるで仙台も共に過ごしていたような感覚になる、本当に不思議で有難い存在だ。

 

そして何より、お互い東北を経験したという過酷で、辛い、厳しい共通過去がある。

今はそこまで過去を卑下しなくても、と思うかもしれないが、当時は本当に、地元から隔離されたような感覚や、職場はお互い高齢化しており、今のように社内環境が整っていなかったり、得意先も(人口減少エリアなので)ネガティブだったり、営業する上で沢山辛い経験をした。

公私共に楽しいことばかりでなく、むしろ辛いことが多くて、Mは「人生の無駄な時間」と呼んでいた時期があったらしい。

私も、20代前半という華の時代を都会で過ごすことを想像していたのに東北で過ごしたことで、心底ギャップに苦しんでいた。若者らしくキラキラした生活がしたかったのに、いつもそのギャップに悲しく泣きたくなるような思いだった。

いつも地元の「関西に早く帰りたい」が口癖だったように思う。

 

でも今回Mと話す中で、お互いの出身地がもはや居場所では無くなっているのではないかという話になった。

 

そのきっかけは、コロナ禍で迎えたお盆期間だった。

私もMもお盆に帰省し、地元で過ごした訳だが、例年と違ったのは、コロナ禍で友達に会えなかったことと、家族と過ごす時間が長すぎたことだった。

 

GWやお盆、年末年始という長期休みに実家に帰れることは本当に最高に楽しいことばかりだった。今までは。

しかし、今回はGWもお盆も、ずっと家族とのみ過ごし、全く友達に会えなくて、正直「つまらない」思いもした。おそらく、コロナ禍で神経質になった親と喧嘩をしたことも影響している。

 

今まで実家に帰った時は、朝と夜以外は、友達と遊びに出かけており、ほとんど家にいなかったので、親とトラブルになることも、「うっとおしい」と感じることはなく、一人暮らしの家のように家事をしたり負担がなく、特に母は最大限のおもてなしをくれるので、本当に居心地が良かった。「お客様」扱いをしてもらっていたということだ。

 

でも、今回は違った。特に父とだが、家の中でマスク着用を求められたり、母と楽しく話しているだけで「唾(菌)が飛ぶ」と怒られたり、心底居心地が悪いタイミングがいくつかあったのだ。

私が保菌者ではないという確証はないが、コロナに対する価値観が合わずに、家族間でもギスギスしたり、初めての感覚「早く名古屋の家に戻りたい」という気持ちすら生まれていた。

どうやらMも同じように家族とのトラブルがあったそうで、途中で「名古屋に帰りたい」と思ったりしたそうだ。

 

そこで気づいたのは、私たちは「地元に帰れば居場所がある」と思っていたが、もはや私たちの居場所は「今住んでいる名古屋」で、お互いの地元にはもう居場所がないのかもしれない、ということだった。

いつも地元に帰れば、「最高に幸せ」な気持ちになっていたのだが、今回はそうもいかなかった。

とてもびっくりした。

 

でもこれは、ネガティブな発見だけではなくて、私たちは今の一人暮らしの生活の方が、もはや現実で、お互いの地元での生活というのは仮想で、幻想になりつつあるということだった。

 

就職のタイミングで、地元企業を全く受けず、全国転勤の会社しか見てなかったので、高い確率で関西を出ることは、今から思えば仕方の無いことだった。

それを、「地元に帰りたい」とずっと願い、そこに居場所があると思っていたが、もはや、大学時代までを過ごした「楽しい関西像」はないのかもしれない。

 

そう考えると、私は社会人になってから、仙台で半年間、盛岡で2年間、名古屋もそろそろ丸2年間を過ごすことになる。

当初望んで住んだ場所では全く、全くなかった。

辛いことは沢山あった。

でも、きっと、今仙台や盛岡を訪れても、「ふるさとに帰ってきたな」という感覚になるし、名古屋もいずれは出ることは確定しているので、名古屋も第2、第3、第4のふるさととなるのだろう。

 

転勤をするこということは、その場所で仕事をするだけでなくて、もちろん、そこで「生活」をしていくわけで、本当に大変だ。

 

でも、仙台や盛岡で社会人になってからも友達が新しくできて、今も名古屋に来てから、こんなMやNのような素敵な友達が出来て、これからも付き合って行けるような貴重な友達が出来たことは、私の人生にとって本当に財産なのだと気づけた。

Mも同じことを言ってくれた。私の存在がとても大切だと。お互い似た境遇で名古屋に来て、奇跡的に出会えて、仲良くなれて、この関係はきっと一生続いていく。

 

そう思うと、全国に友達がいて、それは私の安心感や自信になっていくかもしれない。

 

そのことに気づけてよかった。

 

「転勤して色んな場所に住むことは、帰れるふるさとが増えることであり、それぞれの場所に知り合いができるということである」

 

毎日楽しいことばかりではないし、私は名古屋にいつまでいるのか、分からないし、次にどこに住むのかも分からない。 

でも、限りある時間だと分かっているからこそ、毎日一生懸命生きている。

新しい土地にも仕事にも、いらないほど刺激がある日々を、苦しみ、もがきながらも逃げずに向き合って生きている。

それは本当に尊いことなのではないか。

 

コロナでたくさんの悲しみや苦しみを経験したけれど、かえって大切な友達や家族の存在、そして何より自分という存在の大切さに気づけた。

 

私は日々成長している。これからも人間としてますます成長を続けていくことは間違いない。

 

昨日Mが言っていた。「20代の過ごし方で、30代になった時の顔つきが変わるらしい。」

 

「私たちは絶対30代になったとき、めちゃくちゃ美しく綺麗になれそうだね!!!笑」

そんな冗談、ちょっと本気(そうなれなかったら神様を恨む)で言って笑いあった。

 

最後に私の大好きなブロガーの投稿を紹介して終わります。

 

https://www.zentei-happy-end.com/entry/2020/04/11/192831

 

おしまい