幸せは解釈

誰かに「幸せは解釈」だと聞いた。

その通りだと思う。私は、頭では分かっているのに、自分では上手く解釈ができない。

 

わたしがいつも寺社仏閣でお祈りする時に想うことは「幸せになりたい」である。では、いまは幸せではないのか、満足していないのか、ということ。私はいつも欲深く、満たされていないと感じてしまう。その理由を過去を辿って考えてみる。

 

小学生の頃からだと思う。「私は特別な存在だから、勝ち続けなければならない」的な、選民思想なるものを何故か引きずってしまっている。驚かれるかもしれないが、事実はそうなのだ。自分でも分かっている。本当は自己愛が強く、理想が高く、負けず嫌いなのに練習や下積みが嫌いで、傷つくのが嫌だ。

 

小学生から中学生までの8年間、毎日のようにバドミントンをやっており、同じチームメンバーは県の代表選手であり、チームの順位と県の順位が一致していた。県の中では強かったから表彰台に立つことも多く優越感に浸っていたところもあった。しかし、そのメンバーの中で常に勝ったり負けたり競争があり、圧倒的に強い子がいたのもあり1番なんて到底なれなくて常にモヤモヤ劣等感を感じていた。

 

私はそのバドミントンコミュニティで負け続けてズタボロになったプライドを、学校生活の中で満たそうとしてきた。バドミントンで勝てないなら、勉強で勝てばいいそう思っていたのだろう。小学生中学生の時はみんなが認める勉強ができる子だったし、学級委員や生徒会なども立候補する完全な優等生タイプだった。でも今から思えば、誰でもやればいい点数が取れるテストでいい成績をとって、優越感に浸っていただけで、闘っている世界が狭く、大したこと無かった。井戸の中の蛙というやつだ。

 

高校生の時もそうだった。高校受験に失敗したくなくて、家から自転車で通え、当時の実力では落ちないだろう学校を選んで入った。3年間クラス替えが無く、ずっと成績が上位であり、結果私のプライドだけは守られた。優越感に浸り続けることだけには成功した。しかし、大学受験となると、学校が勧めてくる国公立大学なんて、到底叶わず、志望していた大学には入れなかった。

 

自分で選んだ高校と大学だから過去は美化されるし、色んな出会いにも恵まれたので後悔はしていない。しかし私は小中高大ずっと、成績優秀であることをプライドをかけて守り続けてしまったがために、悪い評価を受けることが怖くてたまらない。大学のテストですら、授業で言ったことからしかほぼ出題されないし、基本的にやれば点が取れる。その上、フル単も呪縛のように守りきり、他の学生が人生の夏休みを謳歌している間に真面目すぎるほど勉強に取り組み、あえて苦しい道もいくつか選んでしまった。

 

大学のゼミは学部でチャレンジな所を選んだが、居心地がずっと悪かった。このあたりから、人の価値はテスト勉強ができることだけが全てではないと気付かされるきっかけとなった。

 

就職活動についても、上手くやらなきゃという呪縛で病みに病みながらも、何とか当時の第一志望の会社にねじ込んでしまい、今に至る。

今の会社は分不相応な所に入ってしまったからか、ずっと居心地が悪い。勉強と仕事ができる、は違う。

 

今までの私の経験を整理すると、プライドが高く、悪い評価を受けることが怖いので、こんなにしんどさを覚えているのだろう。私が今しがみついているのは、所詮大企業であるという会社のブランド名と福利厚生、給与などだ。転勤というリスクで生活が安定しないし、居心地の良さはない。

 

私がどこに住んで、どんな仕事をして、どんな人に囲まれて生きているか、それを気にしているのは主に自分で、せいぜい気にしていたとしてもそれは、家族や周りの友人だけ。それなのに、私はまだ評価や評判を得たいと思っている。

 

でもそれがためにこの先の人生も居心地の悪い中、苦しみながら生きていくのか。それとも、この環境にしがみついて、劣等生を受け入れて生きていくのか。どうすればいいのだろう

 

私が「幸せ」を感じられるのは、この会社でやっていくプライドやステータスを守ることなのか、それとも生活(家庭)なのか。

まだこの会社でチャレンジや成長したい気持ちもありつつ、チャレンジした末に結果が出なくて、かっこ悪い思いをすることになるのか、答えが出なくて震えている。